LOGIN「……なんで、あなたがここにいるの?」 朝のSENOVA実証フロアで、私は入ってきた男を睨んだ。 天野透真。学会で私の製品を「クソだ」と言った男だ。 柔らかい黒髪に、長い睫毛。私と同じ年なのに、笑うと少年みたいに見える。初めて会った時も、その綺麗な顔に騙された。 「久しぶり。相変わらず、美人なのに怖い顔するね。……美人だから余計に怖いのかな」 天野が続けるより先に、燎が私の隣へ立った。 「君のチームメイトだ」 「……何ですって?」 私は燎を振り向いた。 「なんで私に黙って、そんなことを決めるの?」 「実際に使って、問題を見つける人間が要る。天野はその専門だ」 「この人だけは嫌」 「理由は」 天野が、小さく吹き出した。 「本人の前で、そこまで言う?」 「あなたも学会で言ったでしょう。私が目の前にいるのに」 「だって、使えないプロダクトだったから」 あの時と同じ顔で笑っている。 父と何度も試し、奏汰が眠った後も直して、ようやく発表できたものだった。それを、この人は一言で切り捨てた。 質問には、最後まで答えた。この人の前で、分からないまま帰るのは嫌だった。 指摘されたところを直したら、確かに使いやすくなった。 悔しいけれど、それは認めるしかない。 でも、本人に会うと、発表の途中で笑われたことまで思い出してしまう。 「あなたに、もう一度あんな言い方をされるつもりはないわ」 「じゃあ、言わせないものを作ればいい」 また、この人の相手をするの? 一緒に作るところなんて、想像したくなかった。 「燎。別の人を探して」 「こいつ以上の人間はいない」 「一緒に働くのは私よ」 燎は答えず、天野へ目を向けた。 私が嫌だと言っても、帰すつもりはないらしい。 「私の会社よ。誰を入れるか、私が決める」 燎の目が細くなった。 「君は天才だ。だが、君には足りないものがある」 「何が足りないか、あなたに決めてほしくない」 「君と互角に議論できる人間だ」 天野が、楽しそうに私を見る。 「よく分かってるね」 「あなたは黙ってて」 燎は私を見たまま、続けた。 「俺は、君に足りないものを全部そろえているんだ」 「頼んでいないものまで?」 「勝ちたくないのか」 言葉が詰まった。
「泊まるの?」 久条屋敷の客間前の廊下で、莉乃は柊吾を見た。 「志津子さんに勧められた。話が長くなったからな」 正臣の母である志津子と、新社長に就任した柊吾。 そんなに親しかったの? 「それで、こんな時間に何をしてるの?」 柊吾はガウン姿の莉乃へ目を落とし、口元だけで笑った。 「水を取りに出ただけだ。……君こそ、正臣はご機嫌だったか」 莉乃は答えなかった。あの寝室でのことを、柊吾には話したくなかった。 答えない莉乃を気にした様子もなく、柊吾は話題を変えた。 「子供が絵で答えられるようにしたのは、君だろう。昨日の説明を聞いた。明日、開発の連中にも聞かせてくれ」 正臣は、笑った口元が違うと言った。 柊吾が見ていたのは、自分が考えて変えたところだ。灯里ではなく、莉乃として。 正臣に、また抱きしめてほしい。 それなのに、この男の前からも離れたくなかった。 「明日、行くわ」 その約束を、正臣には言わないでおこう。 階段へ向かいかけて、莉乃は足を止めた。 志津子が歩いてくる。顎で切りそろえた白髪はいつもと同じなのに、着ているのは絹の寝間着だった。 「待たせたわね」 莉乃への言葉ではなかった。 志津子は柊吾の襟をつかんで引き寄せ、唇を重ねた。柊吾の手が、ためらいもなくその腰を抱く。 正臣の母親と、柊吾が。 莉乃は二人を見つめたまま、動けなかった。 どういうことなの。 柊吾よりもずっと年上の志津子が、当たり前のように口づけている。 正臣まで言葉を選ぶ、この人だ。今も、息子はすぐ近くの寝室で眠っている。 会社の話をするために招いたのではなかったのか。 柊吾は、その手を離さなかった。 押しつけられているのなら、こんなふうに腰を抱くだろうか。 さっき自分を褒めてくれた口が、志津子へ笑いかける。その顔を見る方が、キスを見た時より嫌だった。 「……正臣さまは、ご存じなんですか」 志津子がこちらを向いた。襟にかけた手は、そのままだ。 光のない、黒々とした目が莉乃を見据えた。 「私が誰を選ぶか、息子に許してもらう必要はありません」 見られたことを、気にしてもいない。 莉乃が返事を探していると、志津子は続けた。 「柊吾さんに頼まれなければ、あなたをこの家に置くつもりは
正臣の親指が、莉乃の口の端をなぞった。 「笑うと、ここがこんなに上がったかな」 莉乃は、何も答えられなかった。 その口元を、この人は見比べている。今、ここにいない灯里と。 「……変ですか」 正臣の指が離れた。 怒られるよりも嫌だった。もう触れたくなくなったのだろうか。 「変じゃないよ。少し違って見えただけだ」 名前を呼んでほしいとは言わずにいた。灯里として扱われることも、自分で選んだ。 でも、楽しくて笑った時くらい、自分のままでいたかった。 どうして、そんなところまで見つけるの。 自分が笑ったことを喜んでくれたと思っていた分、悔しかった。 正臣は優しい顔のままだった。 莉乃は口を開きかけた。昨日の質問に答えたのも、今夜ここにいたのも、私でしょう。そう言ったら、この人はどんな顔をするのだろう。 言えなかった。 あんなふうに甘えたからだ。灯里の笑い方を忘れて、自分のままで笑ってしまったから。 「気のせいかな。おいで、灯里」 差し出された腕の中へ、莉乃は戻った。 さっきはあれほど嬉しかったのに、今は顔を見られたくなかった。 「疲れたんだね。もう寝よう」 正臣が髪を撫でる。 莉乃は、そっと顔を上げた。 「もし、私が灯里じゃなかったら、どうしますか」 正臣の手が止まった。 見とれるほど整った顔に、優しい笑みが浮かんでいた。 その目が、ゆっくりと見開かれる。莉乃が笑ってみせても、正臣はまばたきもせず、その顔を見つめていた。 「……正臣さま?」 「大丈夫だよ」 正臣の指が、もう一度、莉乃の頬に触れた。 「僕が、ちゃんと灯里に戻してあげる」 さっき褒めてくれた時と、同じ声だった。 莉乃は頬に触れる手を両手で包んだ。怖がったことまで、気づかれたくなかった。 「……はい」 自分のままでも愛してくれるか、聞きたかっただけなのに。 もう、聞き直せなかった。 その手に頬を寄せたまま、莉乃は口元が見えないように顔を伏せた。 正臣の胸に額を押しつけると、彼は何も聞かずに、また髪を撫で始めた。 こんなに近くにいるのに、好きだと言ってほしいとさえ言えない。 優しい声が欲しかった。けれど、顔を上げれば、また違うところを見つけられるかもしれない。 莉乃は、眠くなった
「どうしたの」 私の名前も呼んでほしい。 そう言いかけて、莉乃は唇を閉じた。 今の正臣は優しい。けれど、莉乃だと言ったあとも同じ顔で笑ってくれるかは分からない。 今夜、その答えを確かめる勇気はなかった。 「……何でもありません」 「君が欲しいと言ってくれなければ、入れない」 莉乃は正臣の肩に手を置いた。指先が震えているのが、自分でもわかった。 「入れて、ください。正臣さまの、全部……欲しいです」 正臣は笑みを深くし、ゆっくりと腰を沈めた。熱が奥まで広がっていく感覚に、莉乃の喉から甘い声が漏れた。正臣は深く入ったまま動かず、莉乃の額に唇を落とす。 「よく言えた。今夜は、君が望むだけ、僕が全部あげる」 動き始めた腰は、激しくはなかった。莉乃の内側を確かめるように、ゆっくりと深く、何度も同じ場所を擦る。莉乃は正臣の背中に腕を回し、自分から腰を合わせた。 「……もっと、褒めてください」 「本当に、いい子だ。こんなに僕を包んで、熱くなって」 正臣は莉乃の耳たぶを甘噛みしながら、腰の動きを少しだけ深くした。莉乃の声が、抑えきれずに高くなる。正臣はその声を聞きながら、片手で莉乃の髪を梳き、もう片方の手で彼女の腰を優しく支えた。 「灯里。僕の灯里。今夜は、君だけを見ている」 莉乃は正臣の首に顔を埋めた。名前を呼ばれても、今は自分の体が、自分の声が、この人を喜ばせているのがわかった。正臣の動きが次第に速くなり、莉乃の奥を正確に叩くたびに、頭の中が白く霞んでいく。 「……っ、正臣さま、私……」 「いいよ。そのまま、いって」 正臣は莉乃の腰を両手で抱え、深く突き上げた。 「ああっ……」 莉乃の体が弓なりに反り、声が途切れた。正臣はそのまま動きを止めず、莉乃が痙攣する内側を優しく擦り続けた。 「……よく、頑張ったね」 息を整えた莉乃の額に、正臣がもう一度キスをする。莉乃はまだ震える腕で、正臣の背中を離さなかった。 「明日の朝も、ここにいてくれますか」 「当たり前だ。君が望むなら、朝も昼も、ここにいる」 正臣は莉乃を抱き直したまま、シーツを二人の上にかけた。莉乃の髪を指で梳きながら、まだ少し荒い呼吸を静かに聞いていた。 莉乃は目を閉じたまま、正臣の胸に頬を寄せた。あの女が戻りたいと言っても、この熱と、この声と
「今夜は、私だけを見ていてください、正臣さま」 正臣が不思議そうな顔をした。 「ほかに誰がいるの」 そう言って笑う顔が、嬉しかった。 莉乃は正臣の肩へ頬を寄せた。あの女が戻りたいと言っても、この場所だけは渡したくない。 正臣がベッド脇の灯りを消した。 正臣の唇が離れたあと、莉乃はまだその熱を追うように、わずかに身を寄せていた。 今夜は、私だけを見ていて。 さっき自分から言った言葉を、莉乃は心の中でもう一度繰り返した。 正臣は笑いながら、莉乃の腰を抱えてベッドの中央へ引き寄せる。シャツの裾がめくれ、素肌が触れた。まだ少し残る整形の腫れを、正臣は指先でそっと避けた。 「痛いところは、触らない」 低い声でそう言われて、莉乃の胸の奥が熱くなった。正臣は莉乃の寝間着の肩をゆっくりと滑らせ、鎖骨に唇を落とす。キスというより、確認するように長く触れ続けた。 「よく頑張ったな、灯里」 耳元でそう呼ばれても、莉乃は否定しなかった。今は、この名前で褒められることが、自分への言葉に聞こえた。 こんなふうに愛されるなら、灯里になってもいい。 呼ばれる名前が違っても、正臣の隣にいられるのは自分なのだ。今夜は、それで十分だと思えた。 正臣の手が胸の下から脇を撫で上げ、指の腹で乳首を軽く押さえる。強くはない。ただ、熱を与えるように円を描いた。 「……んっ」 莉乃は小さく声を漏らした。正臣はその声を聞くように、もう一度同じところを指で擦る。 「ここ、敏感になってる。昨日の夜から、ずっと我慢してたのか」 「……はい」 正臣は答えを待たずに、莉乃の膝を押し開いた。寝間着の裾が捲れ、太ももの内側に指が這う。莉乃は反射的に脚を閉じようとしたが、正臣の手がそれを許さなかった。 「隠さなくていい。今夜は、君が欲しいところだけを、全部教えてくれ」 その言葉に、莉乃の腰が小さく跳ねた。正臣の指が下着の縁をずらすと、すでに濡れた感触が指先に触れた。正臣はそれを確認するように、ゆっくりと二本の指を沈めていく。 「……っ、正臣さま」 「いい子だ。こんなに、僕を待ってくれてた」 指が奥まで入り、ゆっくりと動かされた。莉乃はシーツを掴み、息を荒くする。正臣は焦らさず、けれど急がせもしない。親指で敏感なところを軽く押さえたまま、指を内側で
燎は私を見つめたまま、笑みを深めた。 昨日、控室でキスをした時と同じくらい、目が熱い。 燎が身をかがめ、私の耳元へ唇を寄せた。 「ますます、手放したくなくなるな」 私にしか聞こえない、低い声だった。 熱い吐息が耳たぶをかすめ、首筋までぞくりとした。 今、そんな声で言わないで。 昨日のキスの続きを、欲しくなってしまう。 燎の顔を見るのが悔しくて、私は神崎教授へ目を戻した。 神崎が燎へ向き直った。 「鷺宮さん。では、外で待っていただけますか」 燎は引いていた椅子を戻した。私と神崎教授、エリックを順に見る。 「終わったら、呼べ」 扉が閉まってから、私は端末をテーブルへ置いた。 神崎教授には、医療の現場で何が必要かを聞いた。エリックとは、今の技術でどこまで作れるかを話した。二人の助言を受けて、考えていた構想が、新しい製品の設計としてまとまっていった。 新しい特許も狙えると、エリックは言った。 早く作りたい。奪われたものを取り返すだけでなく、今度は、自分の新しい製品で勝ちたい。 昼前には、二人とも一緒に開発すると言ってくれた。 私が考えたものを、この二人も作りたいと思ってくれた。それが嬉しかった。 扉を開けると、燎が廊下で電話を切った。 早く話したくて、私は彼の前まで歩いた。 「新しい特許も狙えるって!」 燎は私の顔を見て、笑った。 「もう、そこまで話したのか」 「うん。新しい製品の設計ができたの。二人とも、一緒に作ってくれるって」 言いながら、また嬉しくなった。 今度は、最初から私の名前で作るのだ。 「まだ、ちゃんと作れるかは分からないけど」 「だから、あの二人が加わるんだろう」 燎は私の肩に手を置き、顔をのぞき込んだ。 「俺の紹介だけで、あの二人は動かない」 私も、この人にもっと話したかった。今日、二人と考えたことを、まだ半分も伝えられていない。 何より、嬉しい時に、まず燎の顔を見たくなった。彼が笑うと、また話したくなる。 「お昼、一緒に食べない?」 燎の手が、肩から背中へ回った。 「その誘いなら、断らない」 *** その日の夜、久条の屋敷で、莉乃は正臣の寝室にいた。 階下では、志津子が柊吾と会社の話をしている。夕食に招いたのだと、使用人から